2021年10月
達磨忌(だるまき)
2021年
10月
5日
本堂正面左上にいらっしゃる達磨大師(だるまたいし)
本堂室中の掛け軸の達磨大師
達磨忌10月5日は達磨大師が示寂した日。(示寂(じじゃく)=高僧などの死)
達磨大師はお釈迦様より数えて28代目。
インドより禅の教えを最初に中国に伝えたとされる。(震旦初祖)
伝承によると5世紀の後半にインドから中国の梁の国に来た。
梁の武帝は熱心な仏教信者で、達磨大師を招いて会見された。
武帝が「自分は今まで多くの寺院や仏像を作り大勢の僧に供養してきたが、その功徳はどれほど大きいものであるか。」と質問した。
しかし、達磨は「無功徳」(何の功徳もない)と答えた。
武帝のもとを去り、嵩山少林寺に入り、ひたすら座禅をした。
9年間座禅をしたと伝えられる。
これを面壁九年という。
達磨大師の教え
達磨の教えは「安心」の法といわれ、これを姿かたちに表すのを「壁間」と呼んでいる。
安心が得られ、壁間を実行する方法に二つある。
『理入』と『行入』という。
『理入』
弟子の曇林の「略弁大乗入道四行」にある達磨の教え。
「理入は教えを借りて宗を悟り、深くがん性の同一真性を信ず。
但だ客塵の為に妄覆され、顕了する能わず。
もし妄を捨て真に帰るごときは、壁間に凝住す。
自無く他無く凡聖等一。
堅住して移さず、更に文教に随わず、これすなわち心理に冥府す。
分別あることなく、寂然として無為なり。
これを「理入」と名づく。」
※ 道理を理解してその道(こころ)に入る。
『行入』
「行入」は報怨行、隨縁行、無所求行、称法行の4つである。
1.報怨行 →人生のもとは、自らが撒いた宿業にようのであるから、
決して他をうらむことなく、理にかない、道に従うことが大切である。
※宿業 →先の世で行った行為。因果の道理。
2.隨縁行 →一切のものは元来、無実態(無我)であって、
苦といたり、楽といっても宿縁によるものである。
だから何事によらず、動揺することなく仏の道(こころ)に順うことが大切である。
3.無所求行 →多くのものが迷うのは、むさぼり・執着する心から起こるものである。
真理を識るものは、心安らかで、
道理に適わない貪りや怒りやいたずらに願いを求めることはない。
4.称法行 →すべてのもの(法)は、元々浄い仏心・仏性を持っている。
この道理をよく理解して、これにかなう道を修することである。
その道は何かというと、六度の行である。
※六度の行=六波羅蜜 →布施・持戒・忍辱・精進・禅定・知恵の六
人々の為に尽くす菩薩業
10月、玄関の花
2021年
10月
3日
10月の玄関の花です。
写真に撮ってみたら、鉢が汚いと思いました。
左からゴールドクレスト、ラベンダーのセンティヴィア、菊のマムです。
10月に入ってから暑いので菊が大変早く咲いてしまいました。
9月の終わりに月下美人の大きな花が咲きました。
2年前に檀家さんの青木さんから月下美人を頂きました。
昨年は花が咲かなかったのですが、今年は8月に小さなつぼみを2回見つけました。
しかし、2回とも花になるところを見れずに落ちてしまっていました。
ところが9月、気が付いたら大きなつぼみがついていました。
毎日、気を付けて水を上げたり、何回も見に行きました。
9月29日、膨らんできたので、もうすぐ咲くかもしれないと思い、
原さんに6時から9時の間に咲くと聞いていたので、夕方になって5時ごろからしつこいくらい見に行きました。
本当に6時くらいから咲き始めました。
ずっと見続けていたのではなくて、30分おきくらいに見に行きました。
7時30分位にとっても大きな花を咲かせているのに遭遇しました。
一人ではもったいないので、妹、姪、母を呼びました。
この日は曇りで月は出ていませんでした。
月が出ていたらもっと幻想的だろうと思いました。
あんまりきれいなので花を見ながらお酒を飲んだら風流だなあと思いました。
本堂の前のたたきで電気がついて明るい所で写真を撮りました。
ほんの数時間しか咲かないと聞いていました。
本当に次の日はしぼんでしまって咲きませんでした。
また、原さんがお花をお浸しにして食べると言っていたので、
1日たってからしぼんだ花を取ってお浸しにしようとしましたが、
もったいなくてできませんでした。
月下美人で楽しんだ数日でした。
玄関の花つながりで、お花の話でした。
8月30日、小さなつぼみを見つけました。
次の日に落ちてしまっていました。
9月29日午前7時33分大きな花が咲きそうな大きなつぼみ
だんだん膨らんでいます。
もうすぐ咲きそうです。18時35分
9月29日これは19時29分です。
真観清浄観(シンカンショウジョウカン)
2021年
10月
1日
10月の掲示板
真観清浄観 シンカンショウジョウカン
削ぎ落し、削ぎ落す、
そこに清々しさがある
本当の悟りとは、何かを掴み取った状態ではない。
余計なものを削ぎ落したときに、
おのずと表れてくる、清々しい境地である。
禅の考え方の基本は「引き算」です。
物であれば、できるかぎり、手放し、削ぎ落し、捨てていく。
それでも残るものを、必要だとするのです。
思いも同じです。
心に入ってくる思いを、とどめることなく、消えるにまかせる。
そうすることで、周囲の環境も、心のありようも、
シンプルで清々しいものになるのです。